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聖書とはなにか。

更新日:2023年11月3日

聖書とは

聖書について

 聖書は、神と人間との歴史における出会いの物語である。この体験物語は、東地中海の諸国を舞台に、アブラハムとその子孫を中心に展開し、千有余年に及ぶ。唯一神への信仰は、紀元一世紀の終わりには、東地中海のあらゆる国に向けられ、多くの民族に、ついに世界に伝えられることになる。

 ヘブライ語、アラム語、ギリシア語の三か国語で記されている聖書は、この神体験の集大成である。キリスト教では、これらの文章は旧約聖書と新約聖書の二つにまとめられている。旧約聖書は、アブラハムの子孫であるイスラエル民族と神の関係を述べている。神は、この民をエジプトでの奴隷状態から解放し、シナイ山で契約を結び、約束の地カナンを与え、さらにその後の歴史の歩みによって自らを知らせる。そこには、神による救いの体験に基づて、未来の決定的な救い主を待望させる数々の劇的な物語も織り込まれている。


 新約の信徒の一人であるパウロは、「コリントへの手紙2」(3:14)で、イスラエルの指導者モーセを通して結ばれたシナイ山の契約に言及するとき、これを古い契約と呼んでいる。以来キリスト者は、この契約を中心として書かれた諸書を「旧約聖書」、イエスによる新しい契約を中心に書かれた諸書を「新約聖書」と呼んでいる。新約は旧約に取って替わったとはいえ、新約を理解するためには旧約を理解することが必要であり、両者は同一の神について語る連続の書である。聖書の神は、その第一ページから、言葉で働く神であり、人間に働きかける。


 「ヨハネによる福音書」は、イエスを神の言葉と呼んでおり(ヨハネ1:1)、事実、イエスには、神が人間に伝えようとすることが余すところなく集められている。聖書の著者はすべて、神の言葉の証人であり、この言葉はわたしたちの生き方を照らし、教え、導き、人々に新しい救いを与える。

旧約聖書

 聖書の最初の五つの書は、「モーセの五書」と呼ばれるが、新約の福音書でこれらの書は通常「律法」といわれている。第一の書「創世記」には天地創造、人間、イスラエル民族の起原が述べられており、特に、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフの偉大な祖先が紹介されている。第二の書「出エジプト記」は、その名称が示す通り、イスラエルの民がエジプトからの脱出とシナイ山の契約を述べている。これに続く第三の書では、この契約によって求められた生き方が記されている。「レビ記」は、荒れ野滞在時代の人口調査からその名を得ている。「申命記」は、エジプト脱出と荒れ野滞在中の出来事の意味と、約束の地に入る際に守るべき神の律法を述べながら神への誠実を説く、長い温かい勧告の書である。


 モーセ五書に、イスラエルの民の歴史的な体験を物語る文章が続く。その文章は、二種類のイスラエル史からできている。一つは、「ヨシュア記」「士師記」「サムエル記」「列王記」を含み、もう一つは「歴代誌」「エズラ記」「ネヘミヤ記」から成る。第一のイスラエル史の中で、「ヨシュア記」は、モーセの後継者であるヨシュアの指導のもとでなされたカナン征服と、イスラエルの十二部族に与えられた土地の分割を述べている。「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも見捨てることもない」(ヨシュ1:5)。これが聖書全体の伏線となる本書の主題である。

 「士師記」では、カナン定着に伴う種々の困難な出来事の中で、イスラエル人の心がカナン住民の礼拝する神々に傾き、しばしば近隣の民に屈服させられた経緯が語られる。「サムエル記」の上下二巻は、部族の統合がいかになされ、サウルとダビデによる中央集権がいかに形成されたかを物語っている。「列王記」の上下二巻は、王朝の終わるエルサレム没落までを述べている。

 第二のイスラエル史の中心点は、エルサレムとその神殿である。「歴代誌」の上下二巻はダビデとソロモンのもとでの神殿建築と礼拝を述べ、「エズラ記」と「ネヘミヤ記」の両書は、捕囚の身となった民のバゼロニアからの帰還、破壊された神殿の捕囚となったユダヤ人女性が、ユダヤ人絶滅をたくらむ陰謀をいかに挫折させたかを物語っている。


 千有余年の間、神がその民のうちに現存した事実を物語る以上の各書に、知恵文学の諸書が続く。「ヨブ記」は旧約聖書の最も劇的な書の一つであり、ヨブとその友人との対話形式による長い詩である。「詩編」は、共同あるいは個人の種々の祈りを収めたもので、賛美の詩、感謝の詩、嘆願の詩等から成っている。

 「蔵言」は、人生のさまざまな状況の中で、神の前での正しい生き方を教える知恵者たちの金言集である。「コヘレトの言葉」は、死に運命づけられた人間の生の意義について考えた、ある知恵者の書である。「雅歌」は愛の歌を集めたものであり、ユダヤ人もキリスト者も伝統的に、これを神と人間との相互愛を象徴的表現と見る。


 旧約聖書は、預言者の説教で終わる。預言者とは、神の言葉を語るために神によって呼び出された人々である。

 「イザヤ」は、紀元前八世紀の後半、アッシリア帝国の最盛期にエルサレムに遣わされた神の使者であり、王と住民全体を、どんなときも神に信頼し、神に従うように招く。

 「エレミヤ」も、エルサレムの住民に語るが、時代的にはイザヤの一世紀以上後の新バビロニア帝国の初期のことである。

 「エゼキエル」は、エルサレムの神殿の祭司であり、エレミヤと同時代に活躍する。バビロニアに移され、捕囚の民のもとで使命を果たす。

 「ダニエル」は、バビロニア王の宮延に仕えているユダヤ人の青年として現れ、迫害の中の信仰者に対し、信仰を堅持し神の最終的勝利を希望するよう促す。

 これらの四つの預言書に、他の預言者たちの説教を伝える短い文章が加えられ、十二小預言書と呼ばれる。


新約聖書

 「神はかつて預言者たちによって多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には御子によってわたしたちに語られた。」

 「ヘブライ人への手紙」冒頭(1:1, 2)のこの句は、新約聖書全体を巧みに要約している。アブラハム、モーセ、預言者たちを呼び出し、イスラエルの民の長い歴史を通して自らを知らせた神は、民との完全な出会いを実現し、エレミヤが告げた新しい契約を結ぶため、「わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。」(ヨハ12:45)というイエスの言葉を伝えている。新約聖書はまさに、イエス・キリストを通して与えられる神と人間との決定的な出会いと、各人にとってのその意義を物語る書である。比較的短い二十七の書物は、福音書、「使徒言行録」、手紙、「ヨハネの黙示録」から成っている。

 「マタイによる福音書」は、ユダヤ教から改宗したキリスト者に特に留意して編集されている。ここにはイエスが旧約の約束と待望の成就であることが力説され、イエスの教えは、五つの大説教(5~7章、10章、13章、18章、24~25章)のかたちで紹介されている。

 「マルコによる福音書」は、異邦人の改宗者を対象としており、福音の言葉によって絶えず働いているイエスに従うよう、人々を招いている。

 ルカは、「ルカによる福音書」と「使徒言行録」の著者である。前者はギリシア文化に親しんでいる読者に向けられており、ユダヤ人のみならずすべての人の救い主であるイエスが、特に弱い者、小さい者や罪人に近づいてこれに福音を語ることが強調されている。また、エルサレムで十字架にかかり、復活するためにエルサレムに上るイエスの姿を伝えるが(9:51~19:27)、この死と復活の秘密こそ、地の果てまで告げ知らせられる聖書の救いの使信の確信である。「使徒言行録」は、イエスがもたらした救いの告知がペテロ、パウロなどによってエルサレムに始まり、サマリア、シリア、ギリシアから、ローマまでに広がる経過を描いている。

 「ヨハネによる福音書」は、読者がイエスを神の独り子と信じて永遠の命を得るように記され、イエスの言行のうち特に意味深いものを伝えようとしている。


パウロの手紙は、彼が創設した教会、訪ねようと思うローマのキリスト教徒、あるいは彼の協力者にあてられたもので、手紙の配置は、年代順でない。

 「ローマの信徒への手紙」は、神の恵みの力、罪人である人間の姿、信仰による救い、信仰者の新しい生き方、死んで復活したキリストとの一致、また聖霊による新しい生活等、パウロの説教の重要な主題を扱っている。

 「コリントの信徒への手紙」は、パウロが一年半滞在して創設したコリントの教会にあてられている。その中の「第一の手紙」は、彼の出発後分裂した共同体を一致させ、提起された諸問題に答えている。

 「ガラテヤの信徒への手紙」も、異なる信仰の危機への応答であり、パウロは、キリストがもたらした新しい契約の特徴を情熱を傾けて語る。

 続く三つの手紙と「フィレモンへの手紙」とは、パウロが牢獄で書いたものである。まず、「エフェソの信徒への手紙」はユダヤ人、異邦人を問わず、キリスト者はすべてキリストに一致して、キリストの体を形づくっていることを説明したのち後半では、この一致を日常生活の中で生きるように促している。フィリピはパウロが創設した西洋の最初の教会であり、「フィリピの信徒への手紙」には援助への感謝が述べられている。パウロは獄中であっても、キリストによる喜びと信頼とに満たされており、喜びの手紙といわれる。コロサイはエフェソの東方の町で、キリスト教の共同体はパウロの弟子によって創設された。パウロは「コロサイの信徒への手紙」の中で、種々の宗教思想によって惑わされているキリスト者を助けるために、救いにおけるキリストの卓越した役割を説く。

 「テサロニケの信徒への手紙1」は、パウロの最も初期の手紙で、未熟で迫害にさらされている信者たちを力づけるために書かれている。「第二の手紙」は、キリストの再臨を見られないのではないかとの不安を抱くキリスト者にこたえている。

 「テモテ」「テトス」はパウロの協力者で、パウロは彼らに託された教会をよく指導するよう励ます三つの手紙(「テモテへの手紙1、2」と「テトスへの手紙」)を送る。「フィレモン」はパウロの友人、協力者であり、獄中のパウロは、主人のもとから逃亡し自分のところでキリスト者になった、フィレモンの奴隷オネシモを兄弟として迎えるように勧告する。

 「ヘブライ人への手紙」は、長い勧告の書であり、旧約聖書を引用しながら、キリストが預言者、天使、モーセにまさること、またその祭司職は旧約のそれをはるかに凌駕することを指摘し、よく知られる11章には、信仰のすばらしさが述べられている。

 続く手紙のうち、「ヨハネの手紙2、3」以外は、キリスト者全体にあてられている。「ヤコブの手紙」は、信仰生活の実際的側面、特に共同体内での人間関係や家の問題に指針を与える。「ペテロの手紙1」は、迫害によって失意のうちにあるキリスト者を勇気づけ、「ペテロの手紙2」と「ユダの手紙」は、異端に対して信仰を純粋に保つように求める。「ヨハネの手紙1」は、キリスト教の本質である愛を語る。この手紙と「ヨハネの手紙2、3」は、神の子の受肉を否定する説に直面しているキリスト者の信仰を強める目的で書かれている。

 新約聖書は、人間を救う神の計画が、キリストの輝かしい再臨に向かって、どのように完成されるかを象徴を用いて示す「ヨハネの黙示録」で終わる。これは迫害の下に苦しむキリスト者を励ます書である。

『聖書 新共同訳』日本聖書協会、1987年、1988年より

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