↑ 6階の会場
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↑ 5階の会場
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↑ 5階の会場
↑ 写真作品 《光の平和》@イスラエル・エルサレム
↑ 絵画作品 《光の重荷》
黒い絵画作品とイスラエルの写真作品を発表する個展
挨拶文
ハレルヤ
感謝します。ただただ、感謝します。
天に召される直前まで応援してくれた兄弟、感謝します。
命は、生まれた瞬間から死に向かいます。
だから、今生かされていることに感謝します。
「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」
ヨハネによる福音書 12:24 JA1955
死は終わりではなく、始まりだと思う。
死は悲しみであり、悲しみではないと思う。
肉体が滅んでも、存在は永遠に有するから。
死は、平和について考えるきっかけを与えてくれます。
平和は、人と人について考えるきっかけを与えてくれます。
人と人の関係に赦しや慈悲が存在すれば、
心に平安が生まれると、信じています。
そして、
平安を宿した心は、平和な社会へ一歩前進すると、信じています。
シャローム
2018.03.12
鈴木元彦
個展期間中にテレビ取材を受けました。感謝です。
その際の約8分間の動画になります。
3月12日から3月17日まで銀座ゆう画廊にて開催された個展「光のエルサレム展」のニュース番組(CGN FOCUS)が22日に放映されました。感謝です。
私が「今」、社会に対して伝えたかったことを上手くまとめていただきました(^o^)
また、国画会事務局長の池田先生や後輩写真家の瀬尾君、音楽家の久米さんからのメッセージも感謝です。
私は、作品のタイトルに必ず「光の」とつけます。
これは、「主イエス・キリストの」と翻訳できます。
「光の○○」とは、「主イエス・キリストの○○」と言い換えられます。
黒い正方形の絵画作品は、主イエス・キリストの存在そのものです。
その存在を象徴する「光」を伝えるための作品です。
主イエス・キリストは、見えないけれども、見える。
主イエス・キリストは、見えないけれども、存在している。
私たちは、どんな人でも主イエス・キリストの愛の光で照らされています。
その愛の光に照らされていることに気がつくか、気がつかないかは、
本人次第です。
その愛の光に照らされていることに気がつくと、
私たちは多くの恵みを受けていることに気がつきます。
そして、
今を生かされていること対しても感謝の気持ちが生まれます。
見えないけれど、見える。
聞こえないけれど、聞こえる。
この感覚の姿勢は、
見えなければ、見えるまで見る。
聞こえなければ、聞こえるまで聞く。
この感覚の姿勢は、平和への第一歩です。
つまり、
どんなに理解できない人でも、
どんなに怒りを覚える人でも、
どんなに憤りを覚える人でも、
理解できるまで、その人と向き合う。
怒りが消えるまで、その人と向き合う。
憤りが消えるまで、その人と向き合う。
こんなこと、できるわけがないと思う人が大多数だと思います。
しかし、憎しみは憎しみしか生まない。
負の連鎖を断ち切るには、犠牲が必要です。
この犠牲の愛を最初に実践してくれた方が、主イエス・キリストなのです。
私の制作過程は、
すべてを主イエス・キリストに捧げ、
すべてを主イエス・キリストに委ね、
主イエス・キリストの御導きに従うことから始まります。
そして、主イエス・キリストの光を伝える作品が完成します。
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