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【国画会写真部】

日本最大級の美術公募団体「国画会」が開催している国展とは何か。福原信三らによる国画会写真部

はじめに

所属する日本最大級の総合美術公募団体「国展」を毎年東京・国立新美術館で開催している国画会(写真部)の歴史等を簡単に紹介します。

CV(国画会)
2013年美術公募展「国展」(国立新美術館)に初出品・初入選し、翌年3年間該当者なしの国画賞(最高賞)を《光の静寂》(第88回国展)で受賞。2018年「第92回国展」で準会員優作賞を授賞し、国画会写真部会員推挙。

国画賞受賞作品 《光の静寂》2014年

国画創作協会の創設

現在の国画会の前身は、1918年(大正7年)に5名の新進気鋭の画家達により、「創作の自由を尊重するヲ持って第一義となす」の理念のもとに「国画創作協会」が創設された。

国画創作協会関係者

国画創作協会関係者
出典:https://kokuten.com/whatis

1918年(大正7年)に日本画家の小野竹喬、土田麦僊、村上華岳、野長瀬晩花、榊原紫峰の5名の京都の新進気鋭の画家達により、「創作の自由を尊重するヲ持って第一義となす」の理念のもとに「国画創作協会」が創設された。
明治末期から大正初期にかけては、文化は西欧の影響が大きくなったが、京都では日本画と洋画の垣根なく、学者・画家がともに絵画を論じ研究するグループがあった。
それは西欧の画風を取り入れようとする日本画の確立と日本の風土に根差した洋画の確立を目指すという共通の課題を持ち、渡欧し西欧の芸術について研鑽し、かつ共同の展覧会を開くという清新な風潮であった。
その中にあって国画創作協会の土田麦僊は1925年(大正14年)、共に研究会に参加していた梅原龍三郎、川島理一郎を同協会に迎え入れ、第2部として「洋画部」を新設した。
これを機にそれまで展覧会は秋期であったのが春に変更され、以降春期に定着するに至った。「国展」はこの定期展の呼称とした。この洋画部新設にあたって会運営の円滑化を図るため、評議員として川路柳虹、田中喜作、福原信三、野島康三を加えここに清新なる芸術の創造を目指すことになった。
翌年1926年(大正15年)洋画部の公募をはじめ、記念すべき国画創作協会第一回展を開催した。

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彫刻部工芸部創設

翌1927年に金子九平次を迎えて「彫刻部」を、富本憲吉を迎えて「工芸部」を新設した。
1928年には椿貞雄、河野通勢、高村光太郎を加えた。ここに文展後の帝国美術院と在野の二科会、春陽会に国画創作協会が並ぶ形になり日本の美術界を担った。しかしながら1928年に国画創作協会第一部(日本画)はわずか10年の活動で解散に至る。

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彫刻部工芸部創設
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国画創作協会から国画会に

約100年前の1926年、国画創作協会の名称が「国画会」と改まり、この年に第1回「国展」を開催

国画創作協会第一部の解散後は名称を「国画会」と改め、展覧会名も通称としての「国展」を継承し、洋画部初公募をした1926年を第一回として、1929年を第4回として上野東京府美術館で開催し、国画創作協会の洋画部から国画会として梅原龍三郎の主宰の下に成長を続けることになる。

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国画創作協会から国画会に
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国画会写真部の福原信三

1939年(第14回展)、福原信三、野島康三の下に写真部を新設して総合美術団体としての現在の礎を構築する。福原信三(1883-1948)は、「良質の薬を提供し、人々に健康的な生活を届けたい」という思いで父の福原有信(1848-1924)の三男として生まれた。少年時代は、かんしゃくもちのようであり、何か気に入らないことがあると、家の棒で公人や家業の薬局の小僧さんたちに暴力を振るうことが度々あったので、「磐梯山(ばんだいさん)の破裂坊ちゃん」と呼ばれていた。そんな信三もいつの日か、温和でおとなしい人柄に変わっていった。
福原信三は、我が国における「絵画的写真」表現の第一人者と言える。そもそも絵画的写真表現は、写真の発明が公表された1839年以降、イギリスでアカデミックな絵画を合成的手法による写実的ではない絵画写真が流行した頃までさかのぼる。この写真界に新しい風を吹き込んだのが、ピーター・ヘンリー・エマーソン(1856-1936)である。彼の印象主義的な写真は、「普通の題材を自然に撮っても、それに個性的な芸術性を与え得る」ことを示し、「写真は目で見たのと同じような柔らかい輪郭線を持つべきものである」とも示したのである。この印象主義の影響を受けていると思われるのが、福原信三である。明暗の効果を重視し、対象の形態を意に介することもなく、構図はきわめて自由で、ときには大胆ですらあった。詩的な香気も漂い、格調高い名作であったのである。
福原信三が発行した『 光と其諧調』は、自然と光の調和が写真で最も重要であるとし、「光と影は写真の生命である。……この光と影が交錯した所を写真眼を通じて、夢の世界の筆彩、濃淡の種々相、無絃の光律の演奏を見ることができる。……写真は音楽とちがって空間的に動くものである。それを「印象に従って諧調を瞬間につかむと、その一枚一枚が、一つ一つ別の光律を奏でているのは、短い詩を次々に詠むのと同じ境地である。俳句を写真で詠むようなものである。」といって、彼の自然観が、俳句の自然観と似ていることを示していた」のである。

下記は、福原信三の有名な語録である。

光と共諧調
畫面のよく調和された調子——光線の強弱に由つて生ずる濃淡の調子——は寫眞の表現では第一義のものである。光線が生命である寫眞に共調子がなかったらペンキ塗の看板とえらむ所がない。それで寫真に對する自分達の見界は、なるべく共調子をしっかりつかんで行きたいと 思って居る。しかしこれは却々六づかしい事で 考へた様には行かないかも知れないが、一歩々 々其試みをやって、何處の點迄共諧調を畫面に出せるものか、寫眞術の能力が那邊迄働くか、又自分達の頭が光其物の本體を寫眞術に由つてつかめるかを極めて見たいのである。
 自分達の考へでは、先づ光と諧調を畫面の上で試み様とすれば、印畫撮影の際在来の意味の 線形、乃至は構圖とかいふものを全然頭の中から取り去って、光が非常に其調子と調和され て居る自然を發見した時、印象を興へた共自然 だけを寫す事を試みるに過ぎないのである。誰明が甚だ簡單であるが、要之、自然と光の調和といふ事である。
(写真を語る 大正十四年十一 月八日東京朝日より)

光と自然
◎私は自然を愛するが故に、寫眞によつて、自然の光の力をかりて、自然が私に何を話しかけるかを知らうとする。
自然を愛する心が、光による創造的歓喜と一致するから、私にとって、自然と寫真とは二にして一である。
◎芭蕉翁の心は永久にわれわれに生きて居るのだ自然詩を形に構成したのが寫眞の表現である。
◎表現形式が似て居るからといって、繪畫に似 せるのは墮落である。
(写真を語る 大正十四年 十一月八日東京朝日より)

写真芸術、 対象と対照より
 寫眞を寫す人が、其最初に於て最も踏み込み易い、否、殆ど總ての人の踏み込む誤謬は、寫眞としてでき上った作品と、寫されたもの即ち實物との間に、 或る關係を求めることである。寫す時は、對象であったものを、寫眞ができて了ふと、今度は、その二つを對照するやうになる事である。
◎寫す時に於て、作品に現實を想起する要素を求めない即ち虚心坦懐になることである。
◎昔から、歌一萬首暗記すれば歌を作れるやうになるといはれて居る。一萬首といふのは、多 數の形容詞で二萬でも三萬でも或は萬に充たなくてもよいのであって、要は、今に残されて居る古名歌に多く接する事を意味するのである。然し、 單に接するだけでなく、歌を作りながら一方古からの歌に接すると、段段いい歌を詠めるやうになるといふ事である。此歌を作りながら他の歌を詠むといふ事は、自分の歌と他のそれとを比較研究する結果になる。比較して見れば、自然、自分の歌の巧拙も分り、従つて他の歌の巧拙もはっきり識るやうになるわけで、かうして次第に歌に對する鑑賞眼が發達して来れ ば、自分の歌の拙い處は削り、他の優れた點を手本として、それを自分の歌にも攝取したりなどするうちに、想法に於て、一歩一歩進歩の跡を見せて行くであらう。
◎寫眞の眞の價値は外面的には、光であり、盛られた内容であり、内面的には、造型面に溢れた氣分に浸り、共裡に感ずる自分の心の動きの深淺大小によるもので、寫真を對象として其中に心を浸す時に必然的に心の中に湧き起る感情即ち簡單にいへば、込み上げる感情こそ、共寫眞の價値を定めるものである。
◎寫真を壁などに貼り付けて、暇ある毎にそれを眺める事をおすすめしたい。それによって姑くするとものは見劣りし、見飽き、始め思っ た程でもなくなるが或るものは、何時迄經つても見飽きない計りか、所謂滋滋として心の中に流れ込んで来るやうなものもある。
◎寫眞によって藝術を求める者は、此文學が表現し得る追想の快感に魅せられて、それを寫眞に表現しようとしてはいけない。
(写真芸術・昭 和十八年六月三十日発行より)

出典:『福原信三・福原路草写真集 : 光と其諧調 (ニコンサロンブックス ; 3)』(ニッコールクラブ, 1977.3)

「資生堂企業資料館「初代社長・福原信三の芸術家としての側面」|資生堂」

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福原信三撮影 タイトル不詳 台湾1940
出典:https://corp.shiseido.com/jp/news/detail.html?n=00000000000055

福原信三撮影 タイトル不詳 撮影場所岡山 撮影日不詳_55_h5q09_211.jpg

福原信三撮影 タイトル不詳 撮影場所岡山 撮影日不詳
出典:https://corp.shiseido.com/jp/news/detail.html?n=00000000000055

福原信三 博労 『巴里とセイヌ』 1913_55_h5q09_411.jpg

福原信三 博労 『巴里とセイヌ』 1913
出典:https://corp.shiseido.com/jp/news/detail.html?n=00000000000055

「資生堂、「美を掬(すく)う人 福原信三・路草 -資生堂の美の源流-」展を開催」(リリース全表示PDF[414KB])

https://corp.shiseido.com/jp/newsimg/55_h5q09_jp.pdf

福原信三の略歴

リッチで、スマートで、モダンで
 福原信三(1883-1948)は、資生堂創業者福原有信の三男として銀座に生まれました。幼少より絵画を好み、小学校時代、石井鼎湖について日本画を学び、その子息石井柏亭とも出会っています。鼎湖没後、日本画習得の機を失いますが、図画の教師であった小林万吾に水彩画、油彩画を学び、中学に入ると写真に興味を抱きました。中学卒業後、信三は父の勧めで薬学を学び、薬剤師の資格を取得し、米国へ4年間留学、この時、修行中の画家・川島理一郎と知り合いました。米国からの帰国の途、1年間ヨーロッパを巡り、日本人画家たちと交流し、美術館、博物館を訪れ、欧米の最も華やかな時代の芸術潮流と先進的な都市文化を目の当たりにして1913年に帰国しました。
 パリ滞在中、信三は写真を自分の芸術表現として選び、資生堂を継いでからも、写真芸術社を起こし、『写真芸術』を発刊し、写真集5冊を出版、1919年に開設した資生堂ギャラリーで積極的に写真の展覧会も行いました。また、当時の日本のアマチュア写真家たちを代表する「日本写真会」の会長も務め、優れた写真家として日本の写真界に欠かせない存在となりました。一方、経営者としては、広告宣伝の重要性を欧米で認識し、1916年に意匠部を新設、さらに前述のとおり陳列場に始まる資生堂ギャラリーを開設、「リッチでスマートでモダン」という資生堂の企業イメージを打ち立て、企業文化の基盤を形成しました。
 福原信三と美術の関わりは、写真家やひとりの美術愛好家という側面だけに留まりません。資生堂ギャラリーの運営および製品のパッケージや印刷物のデザインなどにも、彼と美術との結びつきが強く現れています。

出典:https://www.setagayaartmuseum.or.jp/publication/item.php?id=pbl00163

版画部写真部創設

 

第5回展(1930年)に、絵画の中に含まれていた版画も平塚運一の会員推薦により版画部を新設し、翌年から独立した。そして第14回展(1939年)において福原信三、野島康三の下に写真部を新設しここに5部からなる総合美術団体となり現在の礎となった。
草創期の国画会の果たした在野団体としての役割は、福島繁太郎の影響もあり、毎年のように諸外国の優れた作家たち(マチス、ボナール、ロダン、ブールデル、バーナード・リーチ、ルオー、モネ、ルノワール、シャガール、ピカソ、セザンヌ等々)を特別陳列して世に広く紹介したことが特筆される。
この事は内部的に研鑽の資となったのは勿論、対外的にも海外作品に触れることの少なかった当時の美術界には非常に有益な企画でもあった。

出典:https://kokuten.com/whatis

版画部写真部創設
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戦後から現代の国画会として

 

戦後、芸術の分野は個性的にして様々な発想、技法、様式が拡散普遍化したのに伴い、国画会も創作の自由を尊重するのを第一義とした創立精神に基づき、世界的視野に立った創造的にして個性的な作品発表の場として、実に多様にして広角的な作品を抱合する内容となっている。それは絵画・版画・彫刻・工芸・写真の5部それぞれに日本を代表する作家を多数輩出し続けていることでもうなずけるのではなかろうか。
また近年、作家がいかに自然と社会とのかかわりを持ち得るのか等々、美術団体としてのあるべき姿を模索し具体化しつつある。また会の運営は全て合議制になっていることを付記しておきたい。

出典:https://kokuten.com/whatis

戦後から現代の国画会として
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近代日本美術の先達

 

下記に掲げる作家は近代日本美術の先駆者として活躍した先達であるが、国画会においても大いに活躍し、またその後内外に多大な影響を及ぼしたことでも知られている。

絵画部
梅原龍三郎、川島理一郎、山脇信徳、大橋孝吉、椿貞雄、河野通勢、高村光太郎、難波田龍起、宮坂勝、高幡達四郎、宮田重雄、柏木俊一、久保守、武者小路実篤、増田義信、山口薫、青山義雄、庫田テツ、杉本健吉、土田文雄、香月泰男、山崎隆夫、国松登、林重雄、伊東廉、宇治山哲平、曽宮一念、川口軌外、原精一、須田剋太、井上三綱、松田正平、里見勝蔵、小泉清、張替正次、彼末宏 小牧源太郎、藤田吉香

版画部
平塚運一、恩地孝四郎、川西英、川上澄生、棟方志功、畔地梅太郎、関野準一郎、山口源、笹島喜平、斉藤清

彫刻部
清水多嘉示、柳原義達、新海竹蔵、山本豊市、関谷充、千野茂、桜井祐一、茨木敏夫、鈴木実

工芸部
富本憲吉、柳宗悦、濱田庄司、バーナード・リーチ、芹澤ケイ介、河井寛次郎、柳悦孝、舩木道忠、柳悦愽、黒田辰秋

写真部
野島康三、福原信三、木村伊兵衛、中山岩太、北角玄三、西山清、吉川富三、清水武甲、杵島隆

近代日本美術の先達
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