後藤健二兄弟「愛の実践」

 

 ハレルヤ

 

 

 

 オレンジ色の囚人服を着せられた後藤健二兄弟がIS(イスラーム国)の戦闘員の前に跪かされた映像を撮らされたあの日から3年の月日が流れました。後藤兄弟はあのとき何を考え、何を思っていたのでしょうか。

 

 私は、兄弟の心は平安に満ちていたと思います。死に直面している状況でも恐れや不安、恐怖を抱きながらも、強い信仰が兄弟を勇気づけ、兄弟の心を平安へと導いたと思っています。

 

 兄弟が洗礼を受けるきっかけとなったのは、何も分からない紛争取材にて人間の存在を越えた自分以外の力に手を引かれている感覚を覚えたときだと語っています。そして、兄弟が30歳の1997年、日本基督教団田園調布教会のクリスマス礼拝で洗礼を受けます。洗礼を受けてからは、胸ポケットに小さな聖書を入れ、肌身離さず持ち歩くようになったそうです。田園調布教会で洗礼を受けた兄弟は、どんな危険な取材においても聖書を持ち歩き、常に主イエス・キリストと共(インマヌエル)に活動していたのだと思います。だからこそ人間やこの世界の非常さ、不条理、残忍さを感じながらも兄弟の心は平安に満ち溢れていたとのだと思います。

 

 キリストは、「……畑にまかれる一粒の麦のように、わたしも地に落ちて死ななければなりません。そうしなければ、いつまでたっても一人のまま、一粒の種のままです。しかし、死ねば多くの新しい実が生じ、新しいいのちが豊かに実を結ぶことになります」(ヨハネの福音書 12:24 JCB)と弟子のヨハネに語っています。このキリストの愛の教えは、兄弟が自らの行動で示し表してくれました。兄弟の死は今までに感じたことのない怒りと悲しみ、絶望と恐怖、悲嘆、無念、喪失感、困惑、無力感、傷心、虚無を感じた出来事でした。しかし、兄弟の言動や行動は私たちを勇気づけてくれました。そして、慈悲に満ち溢れた精神が私たちの心の奥底に植え付けられました。

 

 兄弟のツイッターに「目を閉じて、じっと我慢。怒ったら、怒鳴ったら、終わり。それは祈りに近い。憎むは人にあらず、裁きは神の領域。―そう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった」というツイートがあります。このメッセージは、次の二つの聖書の御言葉に裏づけられていると読み取れます。「神に逆らう者は頭にくるとすぐにどなり、 知恵のある人はじっと我慢します。」(箴言 知恵の泉 29:11 JCB)、「……決して自分で復讐してはいけません。復讐は神に任せなさい。なぜなら、神が、『当然報復を受けなければならない人には、わたしが報復する』 (申命32・35) と言っておられるからです。」(ローマ人への手紙 12:19 JCB)

 

 異なる思想や異なる価値観をもった人々の間で生じる争いや戦争には、忍耐と愛、そして祈りが必要だと兄弟から学びました。「忍耐力を十分に養いなさい。さまざまな問題が持ち上がった時、そこから逃げ出そうともがいてはいけません。忍耐力が十分身につけば、完全に成長した、どんなことにもびくともしない、強い人になれるでしょう。」(ヤコブの手紙 1:4 JCB)と聖書に記されているように、目を閉じて、ひとり心の中で祈りを捧げることが大切だということです。自分の力で相手を諭し裁くのではなく、すべてを主の御手に委ね、相手の心が平安になれるように主に祈ることが大切だと、兄弟は教えてくれました。このことにより、負の連鎖を断ち切り、弱い立場にある女性、子ども、お年寄りを争いや戦争から救い出し、固く口を閉ざした無表情から笑い声が聞こえる表情へと変え、平和な日常が彼らのもとに訪れると信じています。

 

 志を共にする兄弟の親友であった栗本一紀さんは、2015年2月1日にSNSの「I AM KENJI」から以下のようなメッセージを配信しています。

 

 

 後藤さん

 

 今はただ、あなたが天国で安らかに眠ってくれることだけを祈っています。

 

 今回の事件で、世界中の多くの人々がまた“IS”の残忍さや卑劣さを思い知ることになりました。しかしその脅しに怯えたり、また逆に殺害した連中を敵視したりしても、そこからは何も生まれてきません。憎悪が憎悪を呼ぶだけで、それこそが“IS”が狙っていることです。ぼくたちに憎悪や敵意を抱かせ、敵対心を増幅させることで、世界中にまた彼らに賛同するテロリスト分子を作りだそうとしているのです。

 

 もちろん“IS”がこれまでも、今も行っていることは決して許されることではありません。彼らの行為はなにがなんでも非難され、その罪は償わなければなりません。と、同時に、これまであなたが伝えようとしてきたことや、あなたの変わらぬ尊い意志をぼくたちは受け継いでいく必要があります。それは、今回の事件の残虐非道さだけに目をやるのではなく、どうしてこのような行為が行われたのか、「イスラーム国」のような怪物がどうして生まれることになったのか、その根本にあるものを、ぼくたちはよく考える必要があるということです。

 

 後藤さん、あなたが“IS”に向かう直前の最後のビデオ・メッセージの中で言っていたことは、「何が起こっても責任は私自身にあります。どうか日本の皆さん、シリアの人たちに何も責任を負わせないでください」ということでした。ぼくたちはあなたの死を、誰のせいにもしてはいけないと思います。たとえ「イスラーム国」の人間であっても、です。ぼくたちはあなたの死を、憎しみと悲しみだけで捉えてはいけないということだと思います。

 

 あなたはクリスチャンでしたが、きっとあなたの行動には神の思し召しが働いているのだと、いつも感じていました。あなたが本当に最後まで、命を賭けてまで伝えたかったのは、人間の愛だと思います。弱い人たちや、虐げられている人たち、苦境に暮らす子供や女性たちへの共感の哲学だと思います。

 

 ですから、今こそあなたのために心から祈りを捧げたいと思います。世界中の人たちが憎しみ合うのではなく愛し合い、助け合い、そして平和で争いのないときが一日も早く訪れることを。

 

参考文献:栗本一紀『ジャーナリスト 後藤健二 命のメッセージ』法政大学出版局、2016年

 

 

 

シャローム

鈴木元彦

 

 

 

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